牧志駅/奥武山公園駅/海軍壕公園/旧海軍司令部壕/豊見城総合公園/豊見城城跡/豊見城城址公園/旧陸軍第二野戦病院跡/喜屋武岬
平和の塔/ひめゆりの塔/健児之塔/平和祈念公園/平和の礎/沖縄平和祈念堂/斎場御嶽/壺川駅/玉陵/一中健児之塔/金城町石畳道/金城村家/首里駅
写真の詳細
疲労のためか、薬のためかはよく判らないが、気付けば目覚ましが鳴っていた。
1分1秒と惜しいものだから、着替える必要のないように前もって着ていたわけで。
手を広げても余るほどの海外のベッドもいいが、片手でも伸ばそうものなら壁にぶつけるカプセルホテルの居心地も悪くない。
朝食は無料のパンとコーヒーが自由にもらえるが、特に食欲もないので顔を荒い、歯を磨いて、薬を飲むだけ飲んで出発することにした。
カプセルホテルから徒歩数分の
牧志駅
のホームでは太陽がゆっくり昇っていくところが見えた。
この日の予定は大雑把なものでとりあえず南部に向かうことにはしていた。
一番最初に目指す場所は
旧海軍司令部壕
。
地図でみると牧志駅から4駅空港よりの
奥武山公園駅
からさほど遠くもなさそうなので徒歩を選択した。
途中流石に空腹から吐き気を催したのでコンビニ立ち寄り、パンと暖かいお茶を買って、食欲はないが仕方なしに歩き食い。
途中11月下旬に咲く
朝顔
を横目に、1時間強歩いただろうか、
海軍壕公園
にたどり着いた。
まだ時間が早く壕に入ることが出来なかったので公園内を散策して歩いた。
沖縄に行った人は判ると思うが、至るところにでかい墓がある。
これが個人のものだと判るまでに、この後に向かった
豊見城城址公園
を訪れるまで知らず写真を撮りまくっていたわけで・・・。
中には後に紹介する
護佐丸
のような著名人の墓もあるが。
この墓については後に紹介するとしよう。
旧海軍司令部壕
は、昭和19年に旧帝国海軍設営隊(山根部隊)によって掘られた司令部壕で、当時は約450m程あったと言われている。
カマボコ型に掘り抜いた横穴をコンクリートと抗木で固め、米軍の艦砲射撃に耐え、
持久戦の体制を続けるための地下陣地で、約4000人の兵士が収容されていた。
まだ営業時間になったばかりで、人が辺りにほとんど見当たらないが、資料館に入ることにした。
資料館には壕に残された遺留品や、壕を掘った道具などが展示されている。
またこんな言葉も。
夜はみんな、杖を持って歩いた。死体を踏まないためだった。
飯を炊くとその次にもっとも危険な配食が待っていた。
この
沖縄戦
における死者は日本軍18万8136名(うち12万0228人が民間人)・米軍1万2520人の計20万656名。
当時の沖縄県民の少なくとも県民の4人に1人は死亡。
旧海軍司令部壕
の司令官であった
大田實少将
はじめ幹部6名は拳銃で自決。
その際に沖縄県民の献身的作戦協力を訴えた
電報
(ウィンドウが開かない場合は
こちら
)は、
既に戦力をほぼ失った日本軍の抵抗がいかにはかないいものだったか、
あるいは沖縄県民がどれだけ犠牲を払ったかが窺える。
階段を降りると辺りはひんやりとした空気の中に、お香の匂いが漂っていて、至るところで水が漏れている。
壕の中は各部屋に別れていて、コンクリート漆喰で固められた当時のまま残されている。
また、
幕僚室
には手榴弾で自決した時の破片のあと、
司令官室
には「大君の御はたのもとに死してこそ人と生まれし甲斐ぞありけり」という
大田司令官
の愛唱歌 が生々しく残されている。
薄暗いその壕から出たとき、大分上まで昇った太陽が眩しかった。
予定では次に向かう先は
旧陸軍第二野戦病院跡
となっている。
これは
豊見城城址公園内
にあるわけだが、何を血迷ったか
豊見城総合公園
に向かってしまった。
方向的に正反対の位置にあるわけで、それに気付いたのは1時間程歩き、
豊見城総合公園
に辿り着いてから。
獣道を散策するもどこにも壕らしきものが見つからず、仕方ないので近くにある
役場
らしく所に入り訊ねてようやく気付き・・・。
この日にどうしても南部を回り終えておきたかったが、どうしても行きたかったので、バス停まで向かったが本数が少なすぎる・・・。
仕方なしにタクシーを拾って
豊見城城址公園
へ。
ところが門が閉まっていて、休みなのだろうか、チケット売り場に人がいない。
門には鍵がかけられておらず、隙間から入ることが出来そうなので、こっそり忍び込むことに。
辺りは人の気配など全くなくどうやら休みなのかと思いきや、前方から工事車両が・・・。
話を聞くと改装工事をしているという。それでもどうしても壕を見たいと押すと、中は崩れる危険があるので入らないことを前提に許可を得た。
さて、先に述べた沖縄の墓について。
これは
亀甲墓
と呼ばれるもので、沖縄の人々は死んだら母体へと戻る思想があるらしく、子宮を模ったもののようだ。
豊見城城跡
は丘になっていて
漫湖
を望むことが出来る。
さて、迷路のような公園を歩き回りやっとの思いで
旧陸軍第二野戦病院跡
を見つることができた。
この
野戦病院壕
では、沖縄戦中最激戦地と云われた
首里・浦添・西原・那覇一帯
から負傷兵が次々と運びこまれ、
これに対応するため昼夜兼行で治療と看護が続けられた。
収容能力以上600名余りの負傷兵を抱え、医療施設や医薬品も十分に間に合わず、傷口からはうじ虫がはいだしその包帯を洗っては使い、
食事も満足に支給することもできず、薄暗い壕の中でうずくまって軍医さん看護婦さんと呼ぶ声や姿、
そして治療の甲斐もなく戦死され埋葬された地点にまた爆撃を受け死体や衣服が飛び散って周辺の木枝にぶらさがるなど、
その惨憺たる光景は筆舌につくせなかったと伝えられいる。
その間戦闘はますます悪化し、昭和20年5月27日海軍記念日を期して日本海軍が総攻撃を行うと云う期待もむなしく逆に敵兵が目前に迫り、
その晩からさらに南部の米須へと後退を開始したが、その際独歩患者には杖を与えて退院させ、
重症患者には水や乾パンを枕元におき「最後まで望みを捨てるな」と云いつつ置き去りにせざるをえなかったと伝えられている。
取り合えず壕の中には入らないようにと言われたが、入ってみることにしたが、そこは荒れ果てきっていた。
さて、ここからの移動は徒歩では少し難しい。南部に行くには余りにも遠すぎるのだ。
門を出た瞬間にタクシーを見つけたので躊躇うことなく手を挙げて車に乗り込んだ。
運転手は女性の方で、取り合えず沖縄本島最南端にある岬、
喜屋武岬
に向かってもらった。
そこから先はの行き場所もある程度伝えたが、適当に歩いて行くといった訳だが、予算を聞かれ、7000円と少なめに言ったが、
それである程度の南部を回ってくれるという。これは好都合だと、甘えさせてもらうことにした。
喜屋武岬
は高さ50mの断崖が続き、断崖の上には
灯台
が立っている。
展望台も設置され、眼下には東シナ海と太平洋の紺碧の大海原が広がる絶景地。
沖縄戦
で米軍が読谷海岸に上陸し、
日本軍第三十二司令部
のある
首里城
を包囲、猛攻を加えた。
日本軍司令部
は
首里
の放棄を決定し多くの島民や日本兵は沖縄本島を南へと逃げたが追いつめられ、
喜屋武半島
へ撤退。
最終的には逃げ場を失いこの岬から身を投げたという悲しい歴史の場所でもある。
サイパン島でいうところの、
「バンザイ・クリフ」
。
これには軍事教育の「生きて虜囚の辱めを受けず」という思想が強く根付いていたことにある。
昭和27年10月に将兵及び
沖縄戦
の犠牲になった住民の遺骨1万柱を奉納し、
平和の塔
を築いた。
現在の美しいモニュメントのような塔は昭和44年に造られた2代目。
再びタクシーに乗り込み、
ひめゆりの塔
へ向かった。
1945年3月24日、
沖縄師範学校女子部
と
沖縄県立第一高等女学校
の女子生徒及び職員総計297名は、
南風原陸軍病院
に看護要員として従軍した。
激しい戦闘が続き、5月25日、陸軍病院そのものも、回復の見込みのない負傷兵・学徒を置き去りにして南部の摩文仁に撤退し、分散して地下壕に潜んだ。
戦局が絶望的になると、6月18日、学徒隊は解散を命じられる(看護婦採用試験合格者を除く)。
しかし、既に沖縄のほぼ全域をアメリカ軍が支配しており、地下壕から出ることはほとんど死を意味した。
第一外科壕、第二外科壕
は、アメリカ軍の攻撃を事前に察知し、19日未明までに地下壕から脱出したが、
第三外科壕
は19日朝、
黄燐手榴弾
などの攻撃を受け、壕にいた約100名(うち学校職員5名・生徒40名)のうち生徒5名以外は全員死亡した。
第一外科壕、第二外科壕
などにいた生徒・職員らもその後の激しい戦闘で多くが死亡した。
職員を含む学徒隊員297名中、死亡者は生徒210名、職員16名。
国道331号沿いにある
ひめゆりの塔
。
綺麗に整備された周辺や資料館がある現在からは、当時の戦慄の走る悍ましさは感じ取れない。
だが、資料館内にある200余名の犠牲者の遺影とその室内脇にある
第三外科壕
の複製から射す薄暗い光をみると、
胸を締め付けられる思いになる。
駐車場に戻り車内に乗り込むと、「沖縄は暑いでしょう」といってまだ買ったばかりと思える冷えたペットボトルを運転手さんがくれた。
そこからすぐ近くに
健児之塔
というのがあるので、寄ってもらうことにした。
話は
ひめゆりの塔
と重複する部分もあるが、
1945年3月、米軍の沖縄上陸が必至の状況になると、
「鉄血勤皇隊」
(ウィンドウが開かない場合は
こちら
)の名で、県下の師範学校や男子中学生の生徒たちが組織さた。
別名
健児隊
ともいわれ、最年少は現在の中学生の2年生から、最年長が師範本科3年、つまり現在の大学2年生。
動員された生徒たちは守備軍配下部隊に配属されて戦場に出て、兵隊同様に戦闘任務について、
銃の操作を知らない生徒まで戦車への攻撃法を教えられて前線に投入された。
首里
に危機がせまると、急造の爆雷をかかえて戦車に体当たりするなどしてほとんど全滅。
戦後、生き残った生徒たちにより、戦死した学友を悼み、各学校ごとに
健児之塔
及び
沖縄師範学校健児之塔
建立された。
このようにして多くの民間人である学徒が若くして
沖縄戦
において非業の死を遂げたのである。
これは
沖縄戦
の特徴ともいえる点であり、軍人をはるかに凌ぐ民間人が戦没しているのである。
運転手さんの案内の下、
健児之塔
まで車から降りて少し歩いたが、
この地を含めた沖縄南部のかつての激戦地にくると、偏頭痛がすると言っていた。
美しい自然と光り輝く海、鳥の囀りに波の音が、無情にもはかないのに思えた。
南部での
沖縄戦
を学ぶ最後の目的地であった、
平和祈念公園
は
健児之塔
からすぐそばにあった。
平和の礎
はテレビでよく見かけていたが、予想をはるかに越える石碑に一人一人の名前が刻まれていた。
残念なことに
平和祈念資料館
は休館日。
そこで辺りを散策することに。見晴らしのいい公園で遠くには
風車が
見える。沖縄では風力発電が活発なようだ。
国立沖縄戦没者墓苑
を見てまわり、
平和祈念堂
を最後に南部を後にすることに。
タクシーに乗り込み、最後にそこから大分離れた
世界遺産
は
斎場御嶽
に向かってもらった。
途中メーターが6000円になったところで運転手さんがメーターを止めてくれた。
これは最初僕の告げた予算にあわせてもらったものだ。
本来は
斎場御嶽
までは目的地に入れていなかったのだが、好意により寄ってもらうことになったのだ。
更に運転手さんは「本当なら沖縄そばの美味しい食道に連れて行ってあげたいけど、時間がないからね」と、コンビニに立ち寄り、
適当な数のおにぎりとパンを僕に手渡した。僕はお金を払うといったが頑なに拒んだ。
運転手さんにはちょうど僕と同じくらいの年の息子がいるという。
会話の流れ上、そこ子も
パニック障害
を抱え、通院しているということを知った。
のんびりとした風土や、のんびりとした人々の中でも現代病が蔓延していることに驚いた。
斎場御嶽
は沖縄随一の霊場で、沖縄開闢の神
アマミキョ
が降臨したといわれる
琉球七御獄
の一つ。
沖縄最高位の神女、開得大君の即位式も行われたといわれる神聖な場所。
東側の二枚岩のトンネルをくぐり、光が射すそこは
久高遙拝所
といい、東方海上に
アマミキヨ
が降臨したという神話の島、
久高島
を遥拝するための
三庫理
と呼ばれる拝所がある。
沖縄で御嶽とは神が降臨し鎮座する聖域のことを指すが、琉球開闢のなかでこの国が七つの御嶽から出来上がったと伝えられ、
そのうちの1つがここ
斎場御嶽
であり、その歴史から七御嶽のなかでも琉球王国最高の聖地とされている。
その他の神域は、
斎場御嶽
の入口である
御門口
という神社で言えば拝殿にあたる所から石畳が続き、
次に
大庫理
と呼ばれ琉球の最高位神女・聞得大君の即位式の際、「霊威づけ」という儀式が行なわれたとされる場所がある。
とにかく男子禁制の神聖な場所だったらしい。
タクシーに乗りこみ、
ゆいレール
の
壺川駅
まで送ってもらい、最後の最後まで親切にしていただいた。
また半日お世話になリ会話も絶えることなく充実した時間を過ごすことができた。
モノレールの駅で一緒に記念撮影をしてもらい、まだホテルに帰るには早すぎたので、
首里城
付近の
世界遺産
は
玉陵
に行くことにした。
玉陵
は、1501年(文亀元)、
尚真王
により父
尚円
の遺骨を改葬するために建てられた
第二尚氏
歴代の墓。
首里城
の西側に位置する壮大な石造建築物。
板葺き屋根の宮殿を模した切妻屋根型の墓室が東室・中室・西室の3基連なり、
東室には国王、王妃の遺骨、西室には王族の遺骨、中室には洗骨前の遺骸を安置したとされる。
第二次世界大戦時には、東室、西室が破壊されるなど大きな被害を被った。現在、見られる大部分は第二次世界大戦後に復元されたものである。
首里駅
に向かいがてら、夕暮れの町を散歩していくことにした。
玉陵
からすぐそばに
一中健児之塔
がひっそりとある。
これは
沖縄県立第一中学校
(現:首里高校)の戦没した教職員、並びに学徒を悼んで建てられたもの。
そこから坂を下っていくと、琉球石灰岩で舗装された300mほどの石畳道は
金城町石畳道
がある。
この道は日本の道百選にも選定されていて、また、
尚真王
の時代に
首里城
から南部への主要道路として整備された道だったそうだ。
その道をちょっとそれたところに樹齢300年余の
大赤木郡
がある。
第二次大戦中の激戦地であった
首里
だが、こうして未だに地に根を生やし続けているのだ。
暮れゆく
首里
の街中で、戦没者たちを悼みホテルへと戻った。
この日は路地にて、各所にあった戦争の傷跡を振り返り、感慨深い思いに浸りながら
ほかほか弁当
を食べた。
その後、ホテルにて次の日の予定を立てていると、気付けば3時をまわっていたので急いで床についた。
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