カプセルイン沖縄/国際通り/残波岬//残波岬公園/残波岬灯台/チビチリガマ/イングェーガマ/楚辺通信所/シムクガマ/座喜味城跡
永和の塔/座喜味家族壕跡/忠魂碑/読谷村役場/読谷山飛行場跡/義烈空隊玉砕之地碑


































































写真の詳細



この日はバスに乗り沖縄の中部は読谷村に行くことにしていた。
ここはネットの沖縄出身の友人が色々と隠れた観光スポットを教えてくれたので、そこを巡ることにしていたのだ。
目が覚めて少しだけパンを頂き、薬を飲んで、顔洗い歯磨きをして7時過ぎに出発。
宿泊したカプセルイン沖縄国際通りのはずれにある。
そのすぐそばにある安里バス停から1時間以上かけて読谷村へと向かう。
通勤時間だというのにバスはガラガラ。昨日タクシーの運転手さんも言っていたが、沖縄の人はあまりバスを利用しないという。
18歳になればほとんどの人が車の免許を取ってしまうそうだ。
沖縄の風景は正直言って殺風景だ。どことなく冷たくて閉鎖的なイメージを受けるのは、コンクリートの家屋が多いからか、それともアメリカの基地があるからか…。
正直1時間以上の道のりは退屈だった。終点に着き更にそこから徒歩で1時間以上かけて残波岬へと向かった。

残波岬、1945年4月1日、米軍はこの岬を目印に、南側の読谷村海岸に激しい砲撃の上殺到、上陸。
「持久戦」を目的とする日本軍はまったく無抵抗で、住民を放置し、宜野湾より南に撤退していた。
ここに、多数の住民を巻き込み、集団自決を強要した悲惨な沖縄戦が始まったのだ。
海風が強く煽られそうになりつつも岸のぎりぎりまでいき、しぶきを浴びつつ写真撮影。
残波岬灯台の上は更に強風。柵にすがりつつ写真撮影。
ここへは螺旋階段を上っていくわけだが、降りるときに余りに強風に酔い、階段を踏み外し転倒。
カメラを必死でかばったために腕を負傷・・・。以来レンズにごみが入ったのか黒い影が・・・。

残波岬からの折り返しの徒歩は流石に不眠と栄養不足により、
まだ午前中であり更に今日は一日歩く予定にもかかわらず、疲れきってしまったので、生まれて初めてヒッチハイクを試みた。
ところが一向に車は止まる気配を見せない。運転手は一瞬チラッとみるのだが、目をそらすのだ。
仕方なしに誰もいないし大声でMDで聴いてた曲を歌いながら歩き、ようやく読谷バスターミナルに辿り着いた。
そこで次の目的地先のチビチリガマの行き方をきいたが、少し入り組んでて難しくらしく、
ちょうどバスが出発する時間だというので、バスに乗り込み、少し行ったところで、親切にもバス停ではない、
チビチリガマの最寄の路地のところで降ろしてくれた。

沖縄戦の際に民間人が逃れた壕が数多くある読谷村
その一つである石灰岩の自然洞窟、チビチリガマは、インターネットの友人に紹介してもらった場所。
この壕は屋根が赤レンガのトイレの前方付近が壕の上部になるらしく、それを目印に向かった。
トイレのある角の電信柱には看板があり、そこを曲がると森の中に降りる階段がある。
辺りは鬱蒼としていて人っ子一人としていない。ただ細い川が流れるせせらぎが聞こえる。
調べによると、ここチビチリガマは、「尻切れ洞」という意味らしい。ちなみに、沖縄でガマといえば壕のことを指す。
浅い谷の底にあり、谷底を流れる細い川は壕内へ流れるが、どこへ流れ出るかわからない事からこの名前がついたとも説もあるようだ。
歴史は遡り米軍が残波岬に上陸した1945年4月1日と同時に、この壕は発見された。
米軍の殺さないと言う言葉を信用できず数人が竹槍をもって反撃にでた。
米軍は突っ込んできた避難民に銃を撃ち、2人に命中ししばらくして死んでしまった。
その光景に動揺したリーダー格の二人が「自決」を口にした。
サイパン帰りの二人は焼死や窒息死の例を挙げ毛布に火をつけたが、4人の女性が反発し火を止めた。
その後は自決賛成派と反対派に別れ、口論が続いたそうだ。
そんな中、18歳の少女が「キレイな姿のまま死にたい」と頼み、母に殺されたり、ガマにいた看護婦が親戚に毒を注射してまわったりした。
16人ほどが「天皇陛下バンザイ!」と叫びながら死んでいったそうだ。
精神的、肉体的に追い詰められ、再度毛布に火がつけられた。
前回は止められたが、もうそれを止めることが出来なかった。
煙に包まれながら「天皇陛下バンザイ」と叫びながら避難民は自決。
こうして読谷村波平地区の住民83名が非業の死を遂げた。
壕の内部には眼鏡、入れ歯、ボタンなどの遺品も残るが、遺族の要望により、現在立ち入りは禁止となっている。
チビチリガマから世界へ平和の祈りを(ウィンドウが開かない場合はこちら)

そのチビチリガマから50メートルほど南に行ったところにフェンスがあり、コンクリートの建造物がある。
これは長浜ダムからの灌漑配水用のポンプ施設で、雑木が茂ったあたりがイングェーガマの上部にあたる。
この壕の名前は犬桑江原(イングェーバル)という地名に由来しているそうだ。
なお、ここの壕には約30人が避難しており、全員救出されている。
このたったの50メートルという距離で生死をわけたのである。
それだけではなく、次に向かう目的地のシムクガマでは1000人の命が助かっている事実を、
事前にインターネットの友人とサイトによって知っていたので、チビチリガマでの雰囲気は胸を締め付けるものがあった。

シムクガマへ向かうあぜ道で、畑仕事をしている年配の女性に、巨大な円錐状のフェンスで囲まれた物体について訊ねてみた。
楚辺通信所、通称、ゾウのオリ・キャンプ・ハンザーと言うものらしい。
いわゆる、米海兵隊の施設で、極東一帯の電波を傍受する通信基地。直径200m、高さ30mのアンテナで、全方向の交信用短波に備えている。
楚辺通信所の管理部隊は、在沖米艦隊活動司令部・海軍航空施設隊であるが、
その使用は海軍通信保安活動隊沖縄ハンザ部隊が行っている。
この部隊は、アメリカ国防総省のエージェンシーの一つであるアメリカ国家安全保障局(NSA)から作戦統制を受けながら、
陸軍・空軍・海兵隊の電子通信傍受部隊と共同で活動している。
楚辺通信所の任務は、他国の軍艦、潜水艦、航空機あるいは地上部隊から発信される短波通信や超短波通信を傍受・記録するとともに、
送信(発信)地点割り出しのための方位測定を行うことにある。
米国の世界的戦略機能の一つで、通信傍受を目的とした電子スパイ基地と言われている。
また、高性能コンピューターを駆使しての暗号解読も重要任務とされており、盗聴・暗号解読などを目的とした軍事情報の解析センターでもある。
また、1995 年に起きた米兵による女子暴行事件を機に反基地感情が高まるなか、民有地を米軍が「不法占拠」する状況が現出し、この地は不法占拠地とされている。
沖縄には沢山の米軍基地・提供水域は多々あり、この点についてはまた後ほど述べたいと思う。

このすぐそばにもキジムナーガマという壕がある。
ここにいた五、六世帯の人々は、シムクガマの人々がアメリカーに引っ張られて行ったという話をきき、
その日のうちに山原に避難しようとしたそうだが、中には親志あたりで亡くなった人もいたそうだ。

地図を片手にようやくシムクガマ付近まで辿り着き、川之上のカーという謎のモノを横目に、
舗装された道ではなく茂みへと入っていく形になる。本当にこっちでいいのか、疑心暗鬼になりつつも進む。
もし仮にここでハブにでも噛まれたら一たまりもないわけだが、どうしてもこの壕を見ずして帰るわけにはいかない。
どうやら道は正しかったようだ。壕らしきものと石碑が見えてきた。壕の中には懐中電灯の明かりが3つ。
観光客と思しき人を発見。近づいてみると、一人のガイドらしき人が、そこでの体験記を読み上げている。
どさくさに紛れてゆっくりと近づき話に耳を傾けた。
シムクガマ波平又川原に洞口を開いた天然の鍾乳洞。
洞口はアガリシムクイリシムクの二つあり、総延長2,570メートル。
前述同様に米軍が残波岬に上陸し、1945年4月1日と同日にこの壕もまた発見されている。
ここ波平では約1,570人の字民がこの洞窟に避難していたわけだが、この壕にはハワイ移民の経験のある比嘉平三比嘉平治いう男性がいた。
この両人による米軍との英語での交渉の末に、洞窟内の奥へと逃げ込みうろたえる人々を説得し投降。
洞窟前にある石碑は1995年4月1日、終戦50周年を記念し、シムクガマの入り口に建立された。
碑文には、「比嘉平治氏比嘉平三氏によって救われたシムクガマである」と記されている。

チビチリガマシムクガマの生死の運命をわけたのは、
サイパンでの生活経験をもつ者と、ハワイでの生活経験をもつ者との差だった。
互いに壕でそれぞれの体験談と、それに加え軍事教育を踏まえた上での談義の決断が、大きく左右したのだ。

少し戦争から頭を離し世界遺産座喜味城跡に行くことにした。
地図を持ってはいるものの、いちいち見ながら行くのも面倒くさくなってきたので、通りがかりのおばあちゃんに声をかけた。
どうやら全く逆方向にきていたようだ。おばあちゃんは座喜味城跡近くに住んでいるというので、近くまで案内してもらうことにした。
小柄なおばあちゃんは重そうな野菜のはみ出たビニール袋を持っていたので、それを持ってあげることにした。
話によると片道1時間かけて病院と買い物に毎週行っているそうだ。
沖縄の方言、島言葉の聞き取り辛い所は標準語にわざわざ言い直してくれ、親切なとても優しいおばあちゃんだった。
30分くらい一緒に歩いただけだったのに、別れがとても惜しく感じられたのは、おばあちゃんの温もりを感じただろうか…。
少し嫌がるおばあちゃんと記念撮影をし、ビニール袋を手渡し、か細い手を取り、その少し冷たい手と握手をして、
別方向へと向かうおばあちゃんを何度も振り返りながら座喜味城へと向かった。

城跡に向かう前に読谷村歴史民族資料館に入って、読谷村の郷土を展示品をみることでイメージを膨らませた。
沖縄第一の築城家と知られる護佐丸によって築城された座喜味城の規模はそれほど大きいものではない。
だが、この城を拠点にした海外貿易は、中国製陶磁器や織物・焼き物の出土からして栄えていたことが窺える。
また、アーチ型のくさび石を用いた石門は、この城が最初に採用した工法だといわれている。
城壁からは傾きかけた太陽の光が反射する海と楚辺通信所が望むことが出来た。

その後、永和の塔座喜味家族壕跡忠魂碑を見るだけ見て、
読谷村役場付近にある読谷山飛行場跡義烈空隊玉砕之地碑をみに行くことで、この日の観光を終えることにした。
役場からバス停まで歩こうとしたが、地平線まで続いていそうな滑走路をみると、 どっと疲れが出てきたので、
役場に入って受付のお姉さんにタクシーを呼んでもらうことにした。すぐにタクシーはやってきて、最寄の伊良皆バス停まで送ってもらった。
バスも意外とすぐにきて、あっさりと那覇へと帰ることが出来たが、ついつい寝過ごしてしまい、
国際通りの逆の入り口は県庁があるところまで行ってしまった。
それを機に、夜の国際通りを堪能することにした。暖かい沖縄にもクリスマスムードが漂っていることに少し違和感を感じていると、
途中にわか雨が降り出したので、勇気を出してソウキソバを食べにお店の中へ入ることにした。
ソウキソバはもっとこってりしたものかと思っていたが、案外さっぱりしていて、関西風のうどんを食べているような気がした。

やっとの思いでホテルへと辿り着き、この日もまた遅くまで次の日の予定を立て翌日に備えた。







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