伊舎堂の三本ガジュマル/護座丸の墓/中城城跡/中城高原ホテル跡/伊壽留按司の墓/ 中村家住宅/勝連城跡/万座毛/今帰仁城跡/宜名真トンネル /辺戸岬























































































写真の詳細



沖縄には『琉球王国のグスク及び関連遺産郡』の世界遺産登録に推薦されたものが9箇所ある。
地図によれば今帰仁城跡だけ離れた場所にあり、この日の予定では中城城跡勝連城跡に行く予定にし、
心残りではあるが全ての『琉球王国のグスク及び関連遺産郡』に行きたかったのだが、
今帰仁城跡だけ沖縄に行く前から諦めていた。余りにも距離が離れすぎているし、交通手段がバスとなると時間的に厳しいものがある。

とリあえず、例によって起床後に洗面と歯磨きを済ませ、すぐさま出発。
バスに乗りいざ中城城跡方面へ向かう。
バスから降り少し時間も早いので中城村をゆっくり歩いてみてまわることにした。
やはり沖縄の家屋というのはコンクリートで瓦のものが多い。これは台風に耐久できるためにしたもののようだ。
ところで、中城村には何十年、何百年も生き抜いてきた古木が各地にあり、
村内の古木の中で、村の史跡、天然記念物に指定されている木がそれぞれあるそうだ。
村の史跡に指定されているのが伊舎堂の三本ガジュマル
その昔、伊舎堂の集落は中城城跡の近くにあったが、
現在の地に移住するとき、最初に移り住んだ三組の夫婦が無事移住できたことを記念して三本のガジュマルを植えたと言われている。
その三本のガジュマルをみてから中城城跡へと向かった。

ネットの友人によれば中城城跡付近に昨日行った座喜味城跡及び、中城城、の築城者は護佐丸の墓があるという。
しかし少しわかり辛い場所にあると聞いていたので、訊ねるのが一番手っ取り早いと思い、畑を耕していたおじさんに声をかけた。
するとやはり少し判り辛いところにあり、そこから急斜面の道をのぼらなければならないということで、
親切にも畑を耕している最中にもかかわらず、軽トラックに乗って案内してくれるという。
おじさんの言う通り急斜面を車で駆け上り、中城城跡の道をそれ、やはり見つけ辛い場所にあったお墓への道の前で降ろしてくれた。
護佐丸は琉球が三山分立から統一へ向かった頃の智将・名築城家。
『毛氏先祖由来記』によれば、勝連城主阿麻和利から中山を防御するため、中城の地を賜ったとされる人物。
写真にある護佐丸亀甲墓が、沖縄最古の亀甲墓といわれているそうだ。

その墓から数分歩いたところに中城城跡がある。管理事務所の位置から裏門から入ることになる。
沖縄東海岸中部の中城湾にそった標高167メートルの高台上に位置し、第二次大戦の戦禍をまぬがれ、県内でもっとも原型をとどめている。
琉球石灰岩と地形を巧みに利用し、「野面積み」・「布積み(豆腐積み)」・「あいかた積み(亀甲乱れ積み)」の3種類の手法を用いて築かれた城である。
裏門から三の郭、二の郭、一の郭と続き、それぞれ石の階段とアーチ型の洪門で結ばれている。
1853年に来島したペリー探検隊一行により現地調査が行われた際に、ペリー提督は以下のように讃めている。
『要塞の資材は、石灰岩であり、その石造建築は賞賛すべきものであった。石は…非常に注意深く刻まれてつなぎ合わされているので、
漆喰もセメントも何も用いてないが、個の工事の耐久性を損なうようにも思わなかった。』
余談ではあるが南の郭を更に向かうと、廃墟となった中城高原ホテルへ行くことができる。
ここは沖縄では幽霊ホテルとして有名なようだ。かつて今はなき某テレビ番組でも取り上げられているのを記憶している。
1975年の沖縄海洋博に合わせてオープン予定だったのが、何らかの事情で中止となったようである。
廃墟ブームとして便乗して中へと入ろうとしたが、時間的に勝連城跡へと行くのが厳しくなりそうなので、途中で引き返した。
護佐丸の兄は伊壽留按司の墓も、城跡内の獣道を入って行くと存在する。

この城のすぐそばに、280年前の琉球王朝時代に建てられた、上層農民の代表的な規模形式を完備している中村家住宅がある。
奇跡的に沖縄戦の戦災を免れたこの住宅は、室町時代の日本建築と中国の建築様式を合わせもつ、独特な建造物。
家屋にも入ることができ、中には家具や壺だのの類が展示されている。
交通の便が不便なためか、時期はずれなためか、人が沢山いた世界遺産といえば、これまでに首里城くらいなものだ。
ここでも見当たる人といえば一人くらいしかいない。しかしこの人は観光客とは少し違うようだ。
11月最後の日とはいえ、沖縄の昼は暑くて半袖で十分だが、彼女は黄色いパーカーを着込んでいる。
顔をよくみると沖縄の人といった印象をすぐに受けるような顔立ちをしていて、家屋内の壺をまじまじと見ている。
一通りみ終わり、次の目的地である勝連城跡に向かうために、バス停に行こうと思ったが、迷うと厄介なので、売店に入り道を聞くことに。
すると、先ほどの女性がいつ先に売店に入ったのか、販売されている壺を物色しているところだった。
売店のおばさんに道を訊ねているところを調度購入するだろう壺を持って、こちらにやってきて、話を聞いていたようで車でバス停まで連れて行ってくれるという。
全くその好意に遠慮することなく、その女性が乗ってきた車に乗り込み、バス停に向かうことになったのだが、
車内で話しているうちに意気投合してしまい、その日の午後の予定が全くないということで、車で沖縄を案内してくれるという。
これには流石に気兼ねするものがあったが、『琉球王国のグスク及び関連遺産郡』の世界遺産9箇所、全てを回れると思い、
途中ガソリンスタンドによってもらいガス代を払うことで、その日の午後は想像以上に行動範囲が広がることになった。

まず一番最初に向かった先は、元来の目的地であった勝連城跡である。
彼女が車の中で話した通り、バスで行くには難儀なところで、また、観光客が一人として見当たらなかった。
勝連城は、琉球王府に最後まで抵抗した阿麻和利の居城。
先に述べた中城城尚氏家臣で随一の武勇を誇る護佐丸盛春の居城。
この護佐丸を自害に追い詰めたのが、「護佐丸に二心あり」との讒言を流した阿麻和利
しかし、後にこの謀略は露見に至り、首里王政府郡の征伐を受け阿麻和利が討たれることで、この地は陥落。

次の目的地を、『琉球王国のグスク及び関連遺産郡』の世界遺産9箇所のうち、諦めていた今帰仁城跡とし、そこへ向かう途中、
ガイドブックでみた象の鼻のような奇岩と、綺麗な色をした海の広がる万座毛に通りがかりだったので、立ち寄ってもらった。
ここは観光スポットとして有名らしく観光客が沢山いて、お土産やさんが立ち並んでいる。
中でも「いちゃりばちょうでい(出会えば兄弟)」という島言葉の看板が沖縄の人をあらわしているかのようで印象的だった。
18世紀前半、この地を訪れた尚敬王が「万人を座するに足る」と言ったのがこの名前の由来といわれてるそうだ。

今帰仁城跡に向かう途中、お姉さんのお勧め食べ物があると、道の駅許田やんばる物産センターに寄った。
沖縄の食べ物として有名なもののひとつ、サーターアンダギーの揚げたてを15個ほど購入し、車に再び乗り込み再出発。
どうやらここには島の人にも人気があるようで、観光客はもちろん、島の人も並んで買う勢い。

そして念願の今帰仁城跡に到着したころには、少し日が傾きかけていた。
ここでは城内を一緒に現地のガイドさんが無料(入場料はとられます)でこの城跡について案内してくれた。
今帰仁城は、琉球が中山に統一される前の「三山時代」には北山の拠城とし、
また中山が三山を統一後には琉球王府から派遣された監守という役人の居城であった。
築城年代は不明だが、1322年頃怕尼芝が城主となり、その後、三代目の攀安知にいたる94年間に城は改修され、現在のような規模に達したそうだ。
1416年、中山の尚巴志は2000の兵を率い今帰仁城を攻撃したが、北山勢はこれを防ぎ、
今帰仁城も中山軍を寄せ付けなかったため、尚巴志は一計を案じ、
北山の部将・本部大原を味方に引き入れることで北山軍内部に混乱を起こさせ、ついに難攻不落だった今帰仁城を陥落さた。
その後、この城には北山監守が置かれ、はじめ護佐丸を、1422年には尚巴志の第二子尚忠を任じ、
以後王の子弟をあて、北部地方を統治さたが、1609年、薩摩国大名の島津氏が琉球に侵攻、時の国王・尚寧を捕虜にして征服。
これにより今帰仁城は薩摩軍の攻撃を受けて炎上、破壊されてしまい、今の姿となる。

さて、次の目的地を決めるには車の中での会話で選択肢を二つに一つ選ばなければならないこととなった。
話は遡ること2005年10月6日、サイパン島にてバンザイクリフに行ったときの話をした時、
驚くことにお姉さんのおばー(あえて島言葉)がバンザイクリフで飛び降りていることを聞いたのだ。
実際におばーに会って話を聞いてみたらどうかというが、やはり当時の人間としては死にきれなかったことで自責の念にかられているという。
おばーがどのようにして延命したのかは知らないが、バンザイクリフから飛び降りて生存したとするなら、
既に海に死体が一杯になっている状況で、その上に飛び降り、人間がクッションとなったからだと考えられる。
おばーは2005年に旦那様を失い、それまで決して話す事のなかった戦争の話を、最近ではお姉さんにも少しずつし始めたようだが、
そこまで気乗りして話すようなことはないという。それ故、見知らずの者が突然家まで押しかけ、
余り気乗りするような話を聞き出すことは、こちらとしても余り気乗りするものではなかったので、
沖縄本土最北端の辺戸岬に向かってもらうこととした。
それにしても出逢いとは面白いもので、バンザイクリフをこの目にしてきたのは、この日からおよそ2ヶ月前の事。
孫であるとはいえ、まさかにあの地での生存者と出逢う機会がもてるとは不思議なものだ。
お姉さんは、おばーから耳を塞ぎたくても戦争の話を聞いて次の世代に伝える義務があると言っていた。
確かにその通りだが、自分の祖父が戦争の体験を余り語りたがらないところをみると、やはり自責の念があるからなのだろうか…。
当時を生き抜いてきた人間ではないので、何を言えるわけもなく、実に複雑な心境で選択した結果だった。

途中、車を降りて砂浜から海に沈む夕陽を、サーターアンダギーをほおばりながら眺めた。
再び車に乗り込み再出発。その中で、お姉さんは米軍基地で勤めている事をしった。
米軍基地に対しては色々な見解があるが、お姉さんが言うには、沖縄の生活を保てるのは、
基地内における日本人雇用があるからだというのだ。これは流石になんとも言い難いものがあった。
余談だが、実際にこの後、家でドキュメンタリー番組をみたとき、全く同様の事を言っている沖縄県民を見たわけで…。
先日の米軍基地・提供水域を見て単純に受ける印象といえば、
これ程までに沖縄が米軍によって支配されているのかという憤りに似たものを覚えるわけだが、
沖縄の人はこれによって生計を立てている人が多いと聞くと、実際問題、当事者でない者があれこれ言うものでもないのかもしれない…。

お姉さんが携帯電話にてメールの返信をとのことで、路肩に車をつけたところが、宜名真トンネルの前だった。
このトンネルは前長1045メートルあり、沖縄本島で一番長いトンネルとして、沖縄では学校で習うそうだ。
トンネルを抜けてしばらくしてようやく辺戸岬に辿り着いた。
レストランの明かりだけがポツリとある程度で、辺りは闇と静寂に包まれていて、波と海風の音だけが聞こえるだけ。
もちろん人影などあるわけもない辺りの遊歩道を、携帯電話の明かりで照らしながら歩いた。
かつて沖縄が米軍統治時代に、この岬が鹿児島県の与論島に近いことから、本土復帰を願う海上集会が行われた。
その海上集会を記念して立てられた祖国復帰闘争の碑がある。
与論島を含む奄美諸島は1953年(昭和28)に本土に復帰したが、沖縄の本土復帰が実現するのは、1972年(昭和47)になってようやくの事。
岬の背後にそびえる岩山は、辺戸岳。辺戸御嶽ともいわれ、琉球の祖先アマミキヨが沖縄の島々を創ったときに最初にこしらえたという伝説が残る霊地。

帰りは行きの海岸通とは違う山道で帰ることとなった。お姉さんがそこで見せたいものがあるというのだ。
話は変わるが沖縄の北部の事をやんばる(山原)というのを聞いたのは、南部を案内してくれたタクシーの運転手さんから。
どうやらここら辺で天然記念物はヤンバルクイナが生息しているそうなのだが、今は絶滅が危惧されている。
死亡例の多くは交通事故である。そのためか看板で注意を訴えかけている。あるいは捕食圧による死亡例もあるそうだ。
よって沖縄県民でもヤンバルクイナを見たことがあるという人は、そう多くないらしい。
それはそうとお姉さんは突然舗装されていない砂利道へと車を進め、山へとどんどん登っていこうとする。
そして拓けた広場のような場所で車を止め、エンジンも止めた。そして車から降りた。つられて降りると滝の音がする。
どうやら近くに滝があるようだ。暗くて何も見えないが、明るい時にとった写メールを見せてもらったが、実に綺麗な滝のようだ。
しかし、そこへ行くには余りにも暗すぎるし、梯子のような階段を下りないといけないらしい。
ふと森林に囲まれ滝の音を聞きながら夜空をみると、そこにはこれまで見たこともないような星の数が。満天の星空とはまさにこのこと。
ついいけない癖が出てしまい、見とれる暇もなく車から三脚とカメラを持ち出し撮影を…。

お姉さんは急遽明日仕事になってしまったようで、少し時間的にも遅くなってしまったので高速道路を使って帰ることに。
半日近く付き合ってもらったが、会話も尽きることなく、本当に楽しい時間を過ごす事ができ、
また、行きたくても行けないような場所にまで連れて行ってもらい、本当に感謝しても言葉では表現し難い程の思いを感じていた。
そして翌日の最終日を残すのみとなった。







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