BANZAI CLIFF(PUNTAN SABANETA)/SUICIDE CLIFF( LADERAN BANADERO)/LAST COMMAND POST(BANADERO)
BIRD ISLAND(ISLETA MAIGO FAHANG)/MICRO BEACH/MOBY DICK/PACIFIC ISLANDS CLUB SAIPAN/U.S LANDING MONUMENT
JAPANESE TANK/BEACH ROAD/HAFADAI BEACH HOTEL




























































写真の詳細



初日に寝れない夜を過ごすと、
次の日も中々それが気になって眠れないものだ。
それでもようやく眠りについたかと思いきや、
ネックレスのペンダントが肩の下に突き刺さり、
痛くて目が覚めたりと踏んだりけったり・・・。

そんなこんなで、
気付けばカーテンから朝日が射し込んでいる。
目覚ましがなるまでまだ時間があったがベッドからでた。

今日の午前中はオプションツアーはサイパン北部の半日島内観光になっている。
これは言わばメインイベントといっても過言ではない。
そう、あのバンザイクリフに行くことになっているのだ。


今年(2005年)6月下旬、
天皇皇后両陛下がサイパンを訪れた際にバンザイクリフへも赴かれたことで有名。
何故、天皇皇后両陛下がバンザイクリフに赴かれたのか、
その歴史を説明するには歴史を追う必要がある。



+++マリアナ諸島の歴史+++
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更にその歴史の中でバンザイクリフがどのような歴史を持つ地なのか、
これを次に説明せねばらならない


上記リンクで述べているように、
1941年〜1944年はサイパンを含むマリアナ諸島は日本の統治下にあった。
故に日本人、とりわけ沖縄から沢山の民間人が移住していた。
しかしながら第二次世界大戦の勃発。
日本軍司令部サイパン島北部にあり、
日本軍最後の玉砕突撃が1944年7月7日に決行された。
その翌日には、追い詰められて行き場を失った婦女子や老人たちがアメリカ兵の抑制の声を背に、
およそ1万人がサバネタ岬ラグア・カタン岬の間にある断崖、
バンザイクリフからから祖国を思い「バンザイ」と叫び身を投げた。
奇しくもここがサイパンから一番日本に近い地だった。



天皇皇后両陛下のサイパンへ赴かれたのは、
ご自身の強い希望によるものだった。
そのために今年はサイパンの特集番組が多くあった。
そういったメディアによる歴史を知った上でみに行くというのは何ともいえない・・・、
そんな感慨深い朝の目覚めだった。


迎えのバスがホテルまで来る間、日本から持ってきた線香の箱を握り締めロビーにて待機。
別のツアーと思しき年配の方達が花束を持ってバスに乗り込んでいる。
一方ではゴルフバッグを担いでバスに乗り込んでいる。
あの時、何を思えばよかったろう・・・。

迎えのバスが来たので乗り込んだが、
沢山の見も知らずの人間がボロボロの古めかしいオイルの匂いが漂うバスに乗り込む。
これは中々至難なものがある。
身しらずでしかも大勢と窮屈な空間を共にせねばならぬ場合、
更にツアーともなると時間を厳守しなければならない。
例えば発作が起こったときにそれを打開するのは困難な状況になるわけで、
それを想定することにより予期不安が起こる。
故にバスに乗る前から頓服は服用していたわけで・・・。

ところが実際バスに乗ってみるとその不安もどこへやら。
北に進むに連れて鬱蒼とした森林と山々を通り、ガイドの話も戦争の状況を熱く語り始める。
発作どころか涙を堪える方が必死だったわけで・・・。

そしてバンザイクリフに到着した。
青空と海の群青色のコントラスト、その美しさからは戦争の悲惨さからはかけ離れている。
だが、激しい海風と激しく打ち付けては寄せ返す波とその飛沫が、
あたかも歴史を超えてきたかのように何かが胸に伝わり、
涙が頬をつたった。

周辺には戦没者を弔う慰霊碑が沢山ある。
白い慰霊碑は大きな白いものは母を表現し小さいものは子を表現している。
その先には祖国日本が・・・。
道を挟んでスイサイドクリフを背にサイパン観音像が建っている。

適当に慰霊碑を選び、そこで日本から持ってきた線香を取り出し、
線香に火を点けようとするが波風が強くてとてもじゃないがマッチでは点きそうにない。
火は点かずとも線香だけをその場に置いてバスに戻ろうと後ろを振り向くと、
バスの運転手が窓からライターを振っている。
僕は駆けつけてお礼をいいすかさずさっきの線香に火をつけた。
ツアーなので既にほとんどの同乗者がバスに乗っていたが、これだけは迷惑を顧みずにもせずにいられなかったのだ。
何かそういった衝動にかられていたのだろう。

すると同乗者の若い女性が線香を分けてほしいと言ってきた。
あとから聞いた話だがここで親族を亡くしたそうだ。
その人と共に線香に火を点けて手を合わせた。
急いでバスに戻ろうと振り返ると、それまでバスで待機していた同乗者が降りて、
どうやら僕の背後で共に合唱していたようだ。

次に向かった先はラストコマンドポスト、大日本帝国最後の司令部跡。
1944年7月7日サイパン陥落。斉藤陸軍中将・南雲海軍中将がここにて自決。
トーチカ側面には砲弾による直径およそ2メートルの跡が残っている。
ラストコマンドポストの北側には、
1974年3月日本政府が日本風の屏風を模った中部太平洋戦没者の碑を建てた。
また、南側にはおきなわの塔、その隣に韓国人慰霊平和塔がある。
時間の都合でいけなかったのが心残り・・・。
それにしても、よくもまぁこんな玩具みたいな兵器でアメリカ軍と闘ったものだ・・・。

さて、バスは戦争の面影から遠ざかり、
バードアイランドと呼ばれる場所に向かった。
写真の中央にある島がそれである。
石灰石で出来ているらしい。
それにしてもバードアイランドとは名ばかりか、
鳥が一羽として見当たらないわけですが…。
その後、マイクロビーチと呼ばれるサイパンでも綺麗な浜辺で降ろされた。
確かに水が透き通っていて美しい。
こんなところでおよそ60年前に戦争がおこっていたとは予想もつかない。

さて、午前はこうしてサイパン北部の半日島内観光に終わった。
昼食をとるためにホテルから少し歩いたところにある MOBY DICK というレストランに入った。
ランチタイムだったので6jで食べることができたのはいいのだが…。
実はここのレストラン、昨晩からここで食べる予定になっていたわけで、その予定というのが大の苦手というわけで、
レストランに入るなり激しい予期不安が。
すかさず頓服を飲んだわけだが時既に遅し…。
最初にコーンスープが出てきてその後にサラダが出てきた。
運のいいことにサラダは大皿で出てきたので個々で分けることに。
さて、お次にメインが登場したわけだが、なんとも量の多いこと…。
見本と全然違うではないか。
頑張って完食しようとするも前菜にてお腹一杯。
机の上にあらかじめ全てのものが並べられていなければすぐにお腹一杯になってしまうのだ。
それは病気とは関係なく…。
実際、家でも机に並べられていたものに加えさらに後から出てきたものはお腹に入らないのだ。
どうやら僕の五臓六腑はそういう構造に出来ているらしい。
残すのももったいないのでお持ち帰りようの発泡スチロールを持ってきてもらい、
全てその中に詰めてホテルに一度帰った…。



この日の午後はバスで南までいき、そこからホテルまで歩くことに。
この日の一日は長かった。



+++サイパンの地図+++
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サイパンの移動手段はバスかタクシー、あるいはレンタカーとなる。
今回の場合はツアーだったのでオプションとして定期バス乗り放題パスを活用し、
DFSギャラリアからパシフィック・アイランド・クラブ・サイパンまで行くことに。
このパシフィック・アイランド・クラブ・サイパンの付近にアメリカ軍上陸記念碑が目的だ。
ところが辺り一体はプールしか目に入らない。
そこで係員に聞いてみると「そんなものはこの辺にはないという」
しかし地図にはちゃんと明記されているのだ。
それで地図を見せると、係員は電話をして問い合わせてくれた。
するとそのプールのクライミング・ウォールというアトラクションの壁の裏にあるという。
まさかとは思い行って見ると、その人気のないところにぽつんと石碑があるではないか。
壁の後ろからは多国籍の人々がプールで楽しむ笑い声、これが戦後60年の結果である。
虚しい気もしたがいつまでも戦後問題を引きずり続けるよりは、60年経った今あるべき姿なのかもしれないと思った瞬間だった。

それからというもの、ただひたすら南国の花が咲き誇る海岸沿いを歩き続けた。
また至る所でアメリカ軍の功績を称えるモニュメントがみられた。
しかし日本軍の功績を称えるものはものは何一つとして見当たらない。
これはなにかの象徴なのだろうか。
これが敗戦国の宿命であり、もっともここはアメリカの領土なのだから仕方がないと言えばそれまでだが。
マリアナ政府観光局付近の交差点には、白い十字架にアメリカ軍の鉄兜をかぶせたアメリカ軍上陸記念碑が立っている。
上陸作戦で亡くなった3千人近い米兵の功績を伝える記念碑である。

ススペからサンホセにかけての海岸は、ランディング・ビーチと呼ばれ、
1994年6月アメリカ軍が上陸し、日本軍と戦闘をはじめた地である。

少し休憩をとったところで、ビーチロードを沿ってホテルへと再び歩き始めた。
しばらくしてビーチロード脇にみえるのが第二次世界大戦において編成されたサイパンの第九戦車連隊が使用したと思しき、日本軍九七式中戦車改である。
アメリカ軍はサイパン線初期はM3対戦車自走砲を用いていたが、次第に主力であるM4シャーマン戦車を投入。
火力・防御共に貧弱な日本軍戦車は、圧倒的な敗北を喫した。
この玩具のような小さな戦車では当然の報いだったろう。


それからはひたすらビーチ・ロードを歩き宿泊地へと歩いた。
その途中、造花と灯の燈った蝋燭が海岸脇にあるのを見つけた。
まだ灯が燈って間もないと予測されることから、恐らくちょっと前にここにきて弔った方がいたのだろう。
あるいは所々に戦争の残酷さを語る看板がある。
それとは裏腹に、沖の方に停泊している事前集積船
これらの船は陸軍管轄の「戦闘事前配備軍」に組み込まれる「第三海洋事前配備船中隊」の一部である。
これらの勤めとは戦争が勃発すればこれらは戦地に急行して装備弾薬を陸揚げすることにある。
つまり米軍の海外展開時における機動性向上を目指す目的で配置されているものなのだ。
この中隊はグアムやサイパン周辺を本拠地としてるが、
作戦指示者は日本は横浜ノース・ドックに存在する「極東軍海上輸送軍団」司令官であることを見過ごしてはならない。
何とも複雑な心境・・・。

次第に雲行きが怪しくなり、停留所と思しき煉瓦造りの小屋を横目にしたあたりでスコールにあった。
かばんの中に折りたたみ傘を入れて置いたはずだったのだが、まったく持って見当たらない。
仕方がないので宿泊地へとカメラをタオルに包み猛烈ダッシュ。
ホテル着いた時にはシャワーを浴びたかのような様。
カメラが無事だったのが何よりだ。


この日は朝から相当歩いたのでホテル内にあるにあるバイキングレストランで夕食を。
疲れ果てていた為か、あるいは唐突にそこで食べることになった為めか、バイキング形式だった為か、
いずれにせよ発作の事など念頭になくガッツシ食べることが出来た。







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