黄金仏寺院(ワット・トライミット)/チャイナタウン/パーク・クロン市場/警察署/民主記念塔/国際連合/ラマ5世騎馬像/旧国会議事堂/ウィマンメーク宮殿
ウィンザー・スイーツ・ホテル/チャオプラヤ川/メリタス・スイーツ・ステートタワー(新名称:ルブア・アット・ステートタワー)/バンコク(ドンムアン)空港





































































写真の詳細



とうとう最終日の朝を迎えてしまったわけだが、帰国は夜ということなのでそれまでは最後の観光とショッピングを堪能。

この日はバンコク下町観光。一番最初に向かった先が黄金仏寺院(ワット・トライミット)
黄金仏寺院(ワット・トライミット)はその名の通り黄金の仏像がある。
この金の仏像だが高さ3m、重さ5.5t、純度60%、時下120億円の世界最大級の黄金仏。
スコータイ時代に造られたとされるこの大仏、ビルマの略奪から免れる為に漆喰で固められ、
廃寺に安置されていたが、1953年に港工事のために廃寺を取り壊す際に、クレーンから落下し、
漆喰の仏像にひびが入ってしまったが、その漆喰を全て外し現れたのがこの黄金仏。
この奇数な運命をひめた仏像、本体は16k製といわれるが、頭上の炎の冠は18kらしい。
この仏像の脇には沢山の金箔が塗りこまれた仏像があるが、これらは人々が悪いところが良いようになるようにと、
それぞれの願いを込めて金箔をその個所に塗りこむことで、願いがかなうと信仰されているそうだ。

ここの寺院の入り口前の道路には中国風の鳥居があるわけだが、
それもそのはず、この通りに面してチャイナタウンがあるのだ。
看板が突然漢字だらけになるので一目瞭然。
ここをバスで通り抜けた。

次に向かった先はパーク・クロン市場花飾りから野菜などの類が売られている。
どれもこれも日本のものに比べると大きく、日本人からすると外見が余りよくないため、味も悪そうに見える。
これを見るだけでどれだけ日本が品種改良を重ねてきたかが窺える。

警察署前で待機していたバスに乗り込むと、ガイドさんが市場で購入していたものを取り出し手渡してくれた。
それが何と日本のヤクルト。外見はやはり胡散臭さが漂うが、味は日本のものと変わりない。
道路のロータリー内にある翼のような形をした記念塔は、民主記念塔と呼ばれるもの。
1932年の立憲革命で、700年余年に渡った絶対王政が廃止、それを記念して1940年に建てられたもの。
1992年には民主化要求デモ際に、ここでデモ隊と軍隊が衝突し、多くの犠牲者を出した。
お気づきの方もおられるかもしれないが、タイの道路は国旗と国王の写真が至る所にある。
続いて前方の方から見えてきたのがラマ5世騎馬像旧国会議事堂
1868年に即位したラマ5世は、名君として誉れ高く、政治改革や西欧諸国への対応に辣腕を振るった。
タイの独立を守り、近代国家への足がかりを固めたその功績は国民に讃え続けられている。
その背後にある旧国会議事堂は正式名称をアナンタサムコム宮殿という。
ちなみに一般公開はされていない。現在はすぐちかくにある新国会議事堂にて政治が行われている。
この付近は大学が密集していて、この日はたまたま卒業式と重なり旧国会議事堂はその卒業生でごった返し。
どうやら卒業証書は現国王ラマ9世(プミポン王)から手渡されるらしいが、それほどに名誉なことはあろうか・・・。

この裏手にはラマ5世の別荘として建てられたウィマンメーク宮殿がある。
「雲の上の宮殿」を意味し、タイとヨーロッパ様式のチーク材を使った建物として世界最大急を誇る。
長い間閉鎖されていたがバンコク建都200年祭の時に、シリキット王妃の尽力により、博物館として公開されるようになった。
31ある展示室にはヨーロッパ・日本・中国から集められた工芸品や貴金属が飾られている他、
ラマ5世の寝室から、タイではじめて造られた西洋風のバスとシャワー、チーク製のトイレなどが見れる。
ちなみにたいの寺院など、ここも含めて多くの観光地で短パン、ノースリーブ、素足での入場は不可能となっている。
ここでは全ての手荷物をロッカーに入れ、宮殿内を見学することになっていた。
宮殿内は観光客で溢れ返っていて、そのわりに狭い廊下を行き交いし、迷路のようにグルグル廻るものだから、とうとう発作を起こしてしまった。

ここの見学が終わると全ての観光場所を回り終えたことになる。
それでなくとも慌しい行動だったわけだが、これでもガイドさんが若干スケジュール調整してくれたわけで。
この日の午後は帰国することもあり、ウィンザー・スイーツ・ホテルの日本食バイキングを食べ終えると、
免税店・伊勢丹で買い物という予定。
日本人が買い物好きだということを知っての上での心憎い好意である。
伊勢丹の前には、4つの顔と4本の腕を持つ、ヒンドゥーとバラモンの創造神ブラフマー
太鼓腹の人間の身体に片方の牙の折れた象の頭をもったヒンドゥー教の神の一柱、ガネーシャが安置されている。
買い物は先日のナイトマーケットロビンソンデパートで大体済ませていたので、
大まかにぐるりと回り、椅子に座って出発時間を待つことにした。
すると運転手の助手をしている、背の低いまだ童顔の男の子がいたので、声をかけてみた。
タイでも学校にて英語教育をしているそうなので、タイ語がサッパリ判らない為に、英語で話し掛けてみたが、
英語も全然通じないのでボディーランゲージで伝えてみたところ、彼はどうやら16歳のようだ。
名前はボップ君と言うらしいのだが、他に伝わるりそうな会話をすることが出来なかったのは心残。
彼を含めて日本では大抵の人間が学生であろう年齢でも働いているという事実は、大きな衝撃を受けた。
アユタヤに先日行ったときに、まだ赤子のような容姿の少年が、日陰に座り込んで花細工を売っていたり、
4,5斜線ある道路が渋滞で止まるたびにその隙間を縫って花細工やら麦藁帽子やらを売ってる様は、
現在病に悩まされ働けない、いや働かない僕にとって、余りにも衝撃的過ぎた。
この瞬間だった、僕に今出来ることそれ即ちラスベガスの地に赴き、可能性が低くとも職を求めることを決心したのは。

その後、観光初日にチャオプラヤ川の対岸まで渡った船乗り場付近にて早めの夕食。
チャオプラヤ川に沈む夕陽を見て、ホテルへと荷物をとりに戻った。
空港に行くにはまだ早い、ホテルのロビーで休憩をとる。
日本人観光客と知ってか『昴』や『ホタルノヒカリ』だのをピアノで弾いてくれる。
タイは本当にすごしやすい地だった。何よりも宗教的見地からか文化が良く似ている。
些細なことで御礼を言ったり謝ったり、お辞儀をしたりするところから人柄がよく見えるのだろう。
現地バスガイドさんをとってみてもそうだった。本当に心優しい人だった。
仕事とはいえ日程の調整を細かにしてくれたし、途中現地のお菓子を買い与えてくれたり、
あるいは浮浪者が物乞うような態度をとれば、カバンから小銭を取り出して与えてあげたり、
車の下に小さな子猫がいたのを見かけると、咄嗟に走り出し子猫を捕まえて車通りのない路地に逃がしてあげたり、
そんなちょっとしたことでもこっちまで嬉しくなるような、微笑ましくさせてくれるような人だった。
微笑みの都バンコクと謳い文句で良く言うが、人柄こそが微笑ましくさせてくれるのかもしれない。
あるいは、僕は宗教に何の関心もないし無論信仰もないが、毎日のように寺院に観光に行き礼拝をすると、
決してそれがかなうとは思わない、それでも何となくではあるが、気休めといっては御幣があるが、
何となく心のどこかにゆとりが持てるような、安堵するようなところがあったのは確かだった。
ガイドさんとの別れは本当に惜しいものがあって、よっぽどじゃないが涙が出そうになった。それほどいい人だった。
昨晩フロントの人に英語からタイ語に訳してもらった文章をガイドさんに読み上げた。
本来なら暗記して言うべきところだが、これが覚えられるような文章ではなかったので、途中から紙を取り出し読み上げた。
もちろんガイドさんは日本語が達者なので、日本語で言えばいいところだが、それでは気持ちが伝わらないだろうと思い、
昨晩フロントの人に手伝ってもらって、読み方から発音まで教えてもらったのだ。もちろんタイ語ではなくカタカナだが。
それを読み上げている際、ガイドさんが目をじっと見据えたまま真剣に聞いてくれたことが何よりも嬉しかったし、
読み終えた時に周囲の観光客からの拍手と、ガイドさんからのお礼を聞いたとき、何となく昔を思い出した。
昔は些細なことで褒められたりすることが多かった。増してや大人社会にいることが多かったし。
それでも最近出は普通のことが普通にできなくなってしまい、また出来ないことも増える一方で、
褒められることなど全くといっていい程、日常生活の中では皆無といっていい生活を送っていたわけで。
大人になるに連れ褒められることも減り、病気になったことであたりまえのことができなくなり、
それでもあの瞬間だけは、かつての自分に戻れた、そんな気になれた気がした。

時間になり、バスに乗り込み空港に向かった。やはり高速道路は渋滞していた。
空港でガイドさんと本当の別れを交わし、日本へと帰国した。







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